そういう人間

前回の続き、私が鬱になってしまった時の話。

 

高校卒業したあとはすぐに就職をした。

大学で勉強したい事はなかったし、

安易に独り立ちが自然にできるようになると思って稼ぎたかった。

 

始業時間は正式には9時だが、遅刻が嫌だった私は

8時半には会社に到着するようにしていた。

もちろん、到着したらのんびりする気にもならず、

できる事から既に始めていて「偉い」と言われる人になっていた。

同じ部署に同期は一人いた。

私とは正反対で髪も染めていたし、

軽いにわかギャルのような感じ(?)の子だったけど、直ぐに仲良くなれた。

 

入社して一年、同期はほぼほぼ決まって遅刻し

朝は必ず「お腹が痛い」と言って具合が悪い所から始まり

よくトイレに席を立つ子になっていた。

最初はとても心配した。

朝にお腹が弱い人は比較的多いと思っていたし、

痛いのは耐えがたいものだから。

同期が遅刻すると同期の業務は私に振り分けられることになる。

仕方がない、と思っていたし申し訳なさそうに後から来る同期に

嫌な顔はできなかった。

 

けれど、度々小耳に挟む「昨日アフターでディズニー行って~」や、

「昨日オールしてて~」や「このあとアフターでディズニー行く~」の話、

休憩時間でもないのにトイレや給湯室でスマホを見ている姿を見る度に、

同期に対する同情の気持ちはどんどん崩れていった。

 

体調不良で遅刻した日に定時で上がってディズニーに行く?

誰かのせいで午前中忙しかったのに、サボることに罪悪感はないのか?

だんだん込み上げる憤り。

けれどそれを上司や先輩には言えなかった。

「できません」

その言葉は私の負けだと思ったから。

私はこんな奴とは違うんだと、どこかで異常なほどプライドを持っていて

弱音を吐きたくなった。

 

1年半経った頃、朝は6時か5時半に起きて自分のお弁当を作って

酷い時は家族の分まで作って、人身事故があっても絶対に遅刻しない時間に出て、

始業時間1時間前には自分の朝の仕事はだいたい進めておくまでなった。

仕事ができるようになってきて担当分野が増え、

頼られるところも多くなりお昼ご飯はインスタントのカップスープパスタとパン1個、

それかコンビニおにぎりだけの日もあった。

休憩室に皆で入って食べ始めても、私は食べ終わったら直ぐに仕事に戻った。

家に帰るとまるでこれからが一日のスタートのようにテキパキと動けた。

 

「仕事に真面目な人」そんな人になりたかったし、そう思われていた。

けれど徐々に、私の様子はおかしくなっていったと、後から母に言われた。

 

2年目、仕事から帰ってきて真っ暗な部屋の中で携帯の明りを眺めながら

ボーっとしている所を「どうしたの」と酷く心配されてようやく泣いた。

 

ようやく気付いた。

辛い、つらい、仕事が辛い。

いつも手一杯で、焦っていて、

なのに同期は呑気に遊び回って上手く仕事をすり抜けて、

上司には良い所を見せて、上手に世渡りしている。

私は頑張ってやっても滑稽に何とか飛び回っているだけ。

仕事が上手くできない私を責めたのは私一人だけだったのだと思うが、

当時は上司の期待に応えられない事に負い目を感じ、

周りの視線が気になって仕方がなかった。

幸いにも母は理解してくれたし、私を肯定し、味方になってくれた。

 

2年半目、父が癌になって余命宣告された。

突然思い出しては泣くようになった。

仕事中、心配した上司に声を掛けられ愛想笑いを返して話していたのに、

突然蹲って泣く程、私は父の病状にショックを受けていた。

なのに、父のお見舞いにあまり行かなかった。

「仕事を休めない」

今思うと信じられない話だが、私は仕事を休めないという呪いをかけて、

父の病気は治ると思っていた。

幼稚な頭は医者の言葉よりも都合よく解釈しようと必死だったんだと思う。

 

だから、父が亡くなったときに私の心は耐えきれなかった。

父の葬儀が終わり、再び出勤日の朝、乗るはずの電車をただただ見送った。

ドキドキする心臓、擦れ違う社会人、震える手で上司に電話する。

「…電車に、乗れません」

泣きながら、子供みたいに。事態は深刻だと上司は気づいてその日は休んだ。

それから崩れ落ちるように私は仕事に行かれず、

上司とは何度も面談して休業や復帰を乗り越えて、辞めた。

3年ギリギリ持たなかった。

「正しい社会人は最低でも3年は務める」

どっかで誰かが無責任に言った言葉を思い出し、私に最後に止めを刺した。

 

辞めた後、私は死ぬ準備をした。

死ななきゃならないという使命感があった。

心療内科で貰った薬は、考える事を止めさせ

フワフワとした感覚を与えて、確実な思考の放棄をさせてくる。

その度に「私は何もできないダメ人間」になっていき、

私の時間は止まっていく。だから、死ななきゃならなかった。

何も生産性もなく、金も稼がず生きていくなんていけない事だったから。

 

心療内科に通って、薬を飲んでいたのは約1年間。

家族とはめちゃくちゃ言い争いをしたし、泣きまくったし、

母とは本当に戦って見つめなおして一緒に悩んでもらって、

お互い死んじゃおうか、なんて言った事もあった。

本当にお世話かけまくったと思う。

そして先生が急に辞めて変わってしまった途端、私はふと気づいた事があった。

新しい先生に今までの事を一から説明したとき、

味気ない返事とタメにならない謎のアドバイスと、減らない薬の量。

 

これは救いじゃない。これは解決じゃない。

あとこの時の薬が自分に合わなくて勝手に飲むのを止めた時、

緊張したりフラッシュバックでパニックになる事はあったものの、

根拠もない「今やるしかない」が湧き出てきた。

どんなに辛くても、仕事をしなくてはと1年ぶりに思った。

いや、思っていた。

仕事をしていない事が追い目だった。

 

それで一番自分が苦手とする接客業のアルバイトから私は社会復帰した。

面接から本当に心臓が破裂しそうなくらいドキドキして、

鬱病の事も正直に話して「治りました」なんて嘘もついた。

それで採用されて、今度は接客でドキドキした。

くっそ対人苦手なくせに、手元に残っていたレキソタン

頓服かわりになんとか仕事をこなしていった。

そしたら思いのほか新人のくせに売り上げ立てちゃって

マネージャーにも結構褒められて、自信がついて…

 

長くなったけど、そんな感じで今は鬱病は克服したと思っている。

未だに対人は嫌いで接客も超好き!なわけじゃない。

クソ客にはクソ死ね!って思っているし、嫌な奴は本当に嫌い。

でも、そんな風に思えるくらいになれた。

 

ただ、忘れてはいけないのは

私は鬱に陥りやすいメンタルの人間なんだってこと。

今でもアルバイトだから、人生イージーモードのままだし、本当は正社員にならなきゃいけないと思っているけど年齢も年齢だし、正社員の日数働いたら直ぐに潰れてしまうというのがネックなところ。

 

 まだ、終わっちゃいないんだろうな。